(一)人と人間の違い
一般では人のことを人間という言い方をして、同じ意味として使っているが、実際には人と人間とでは大きな違いがある。では、人とは何か、人間とは何かを知らねばその違いも判らないし、人本来あるべき真相も判りようがないという事になる。
◎人とは何か?
人という言葉には、「霊が止まる者」という意味があり、それを「霊止」と書く。この霊が止まるということは、体のある人・他の生き物全てに命(=霊が宿っているということである。霊が体に宿っているから生き物として動くことができ、成長することができる。
「神霊は万物普遍の霊」と言われるように万物普遍に神霊の霊が宿っている。つまりこれは、森羅万象総てのものは全智全能の神霊の意志によって産み出されているということである。
特に、これら無限の生きものの中で中心となっているのが人(霊止)である。人が存在するから、それに必要な生き物・自然物一切が全智全能の神霊によって産み出されているのである。全て人を中心として、地球・大宇宙が造られている。それ故に、「人は万物の霊長者」と言われ、他に生き物が居る中で、人だけが「霊止」と呼ばれる。
つまり、人は全智全能の神霊の意志の実行者・実現者としての命を受け、神霊の体となってその命を果たす為に産み出されているのである。そういう立場にあるのが人(神霊の霊が止まる者)であり、これが本来の人の真相である。
◎人間とは何か?
本来、人(霊止)であるべき者が、全智全能の神霊の意志から離れ、その意志を無視してしまった生き方になっている。
神霊の意志を中心にするどころか、自分の思い・願いを中心に置いた在り方に成っており、先ず自己の幸せ・繁栄を優先させる自己中心の思い方・やり方から全て発している。一身一家の幸せ、一国の繁栄、教えの拡大、これらは家族単位か、国単位か、宗教的単位かの違いがあるだけで、思い方そのものは全て我よしから発している。目に見えるものは信じるが、目に見えない神霊・先祖の心は信じないというのも、目に見える地上現界が中心になっている。神を信じています、先祖を大切にしていますと、いくら口で言っても、その神・先祖の心を霊界に行って確かめた訳でもなく、唯自分にとって都合の良い神・先祖であるなら、救ってくれるものとして求めていく。そういう在り方は全く神霊・先祖の心を無視してしまっている。
人であるべき者が、人間に成り下がってしまった。本来、天と地の間に立って神霊に代わって地上の司となるべき立場の者が、「人に成るか、獣に成るか?」の間に居る人間と言われるものに成ってしまった。
「地上の主」、即ち総ての生きものの中で「霊長者」であるという人(霊止)としての自覚ができているかどうか?これが人間のままで居ると、同じ生まれるならもっと裕福な家に生まれていれば良かった等、人として産んでもらったばかりに不平不足の心を常に持った在り方になっている。他の生き物が不足を言うなら判るが、最高の立場に産んでもらっておりながら、人としての喜びが出て来ない。無限の生き物の中で、人として生を受けたという事は、もうその事自体が奇蹟であり、救われてしまった結果の姿ということである。そういう思い方になるかならないか!人と人間とでは、姿・形は同じでも、その中味(思い方)が違うのである。
人間から人に向上すれば、人として生まれたその「最高の幸せ」「最高の神霊の恵み」に気付き、感謝せずには居られない。そうなれば、その喜び感謝を如何に今度は恩で報わさせてもらうかという事に思い到るのである。
感謝から始まるのが人(霊止)ということである。
(二)人から神人 への甦 り
人は更に全智全能の神霊の意志を実行する神人へと甦らねばならない。神人に甦るには、人の魂を基にした修行や信仰ではなく、大夲惟神(神流れ)により運ばれて来た全智全能の神霊の分霊である伊都能売神魂を拝受しなければならない。その神霊の魂を宿す事により、魂の本から生まれかわれる立場に立つのであり、その人自身が神霊の示される真理の道を実践実行して歩んで行く事が、人間の魂本改革となるのである。
神人とは、神霊の命を実相で顕わす感謝報恩の実行者である。
(三)神言
言霊神人鳴
皆々は死んだ覚えなど全く無いと云うて死んでは居らんと思いている者ばかりなれども、大方の者が死んでいる事に早く気付かなくては誠生まれ変わる事も出来ぬのであるなり。生きながらにして生まれ変わるのが真理の変わらざる処なれども、死したる者は悲しむべきか、生まれ変わる事を知らぬのであるから気の毒なものであるなり。肉体は動いているから生きておると思うなれども、大きな取違えを致しておるのが今の人民達であるなり。
故に、獣の世界に落ちておりてもサッパリ改神が出来ぬ処迄精神も全く腐敗し切りているのであるから、どうしてやる事も出来んのであるから皆々心の中に少しでも人としての自覚ある心の持ち合わせがあるとするなれば、速やかに大夲神魂十祖神皇二神の大神意を汲取りて行くだけの誠の生命が流れておらなくてはならぬものであるなり。かくなる誠人たる人としての生命と云うものが、心の片隅にでも残りておりたら、生きながらにして神人と生まれ変わりと云うものはいとも易く、早く成り成るものであるなり。
而れども誠の生命なき者は、全く神魂先祖の声なき声をもサッパリ響かずば、又受け止めるだけの誠の心さえも持ち合わせていないのであるから、死んで腐敗したる人の亡骸同然の姿にありければ実に哀れなるものなり。早く、神人世の実相時代に開眼すべきは必定の時なり。
惟神